愛の戦士キューピーハニーの日記Neo

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体罰考

吉備路マラソンサブフォー達成に向け、ブログするより練習しなさいって話なんですが、どうしても語りたいことがあって。
最近問題になってるスポーツ界、教育現場における体罰について。


私は、若い頃スポーツに没頭した経験がなく、中年になってからスポーツに目覚めた一人です。
たとえアマチュアの市民レベルでも、こんなにスポーツに夢中になり、スポーツがその人の人生に影響を与えるほどのものであるのか、熱くしてくれるのはなぜかと考えた時、
スポーツというのはまさに、「弱肉強食」の世界なんですね。
世の中にははっきり言って、その立場や地位ゆえに崇められているけど、個人的には絶対に相手にされんでしょ?って人、いますよね。
裸の王様的な。その場に甘んじて、その世界でしか生きていけない、KYさん。
そうゆう人は、大人になって本格的なスポーツは出来ないと思います。
なぜなら、競技志向においては、強いが偉いだからです。
どんなに地位の高い人だろうが、初心者で結果が出ない時期は、格下です。
つまりは、スポーツは「純粋」な世界であり、「フェア」な世界です。
この世においての聖域です。



大阪の某高校バスケ部の「指導死」と呼ばれる生徒の自殺、柔道女子15選手による監督パワハラ告発など、論議を呼んでいます。
橋下市長は以前、体罰容認の主張でしたが、遺族の話を聞くうち、弁護士でもあるからでしょう、傾聴するうち、これは問題だと、体罰一掃として、こんどは市長の立場で入試中止を命令しましたね。
確かに親の立場からすると、死ぬくらいならやらせなければよかったって話です。
柔道女子の告発については、本来監督と選手は師弟関係でありながら、告発され、する立場を取る、ある意味さみしい信頼関係と思いましたが、これについても、おとなしい特定の選手をターゲットとする「しごき」だったみたいですね。
当事者でない限り、推論では言えませんが、
そもそも指導にあたり、差別的な態度を取ること自体が、人間的に優れた指導者とは言えないですね。


なぜ「体罰」が容認されてきたのか。
やはり学校単位や団体単位で大会に出場する競技がほとんどだからでしょう。体罰は手っ取り早く練習課題を選手に強制出来る。
選手一人一人が天性のモチベーションを保ち自主的に努力するというのは難しいという前提で。
しかし、体罰なんかなしで、選手がのびのびと能力を伸ばしていける、つまり選手一人一人を一人前扱いして信頼を得られる監督こそ優れた指導者だろう。


体罰」というと聞こえは悪いんだけど、文化的背景として伝統芸能や職人の世界でもそれはある。
「稽古をつける」と言い換えたほうがいいのか。
思うに、人間は何事も忘れっぽいもんで、「叱られる」ということが一番記憶に残り身にしみる。そして身につく。
実際、子育ての上でも子どもをタイミングよく叱らずして教育なんて出来ない。
例えば座禅のように、修行者が集中力が途絶えて前かがみになった時、バシッと叩かれるじゃないですか。
あれはいきなりじゃないですよね。
直日・直堂も、修行者も、両者ともが警策を「与える」・「いただく」精神で前後に合掌低頭し、お互いに感謝の意を表すんです。
つまり与えるほうは警告し、与えられるほうは受身の姿勢を取れるんです。
体罰」というのは、それがないんじゃないのかな。
指導者もキレ、選手もキレ、その果てに・・じゃ駄目でしょう。
全然スポーツマンシップじゃないです。